「禅」とは、アナロジカルシンキングである
2015/11/09
この記事の所要時間: 約 8分51秒
金沢の石川県立大学音楽堂で「禅」についてのフォーラムを聴くことができました。
元サッカー選手の中田さんや、元総合格闘家の前田さんもトークセッションに参加。
今回は撮影や録音がNGだったので、とりあえずメモしまくりました。
2時間半の内容なので、かなり長いメモです;^_^A
2015年JCI世界会議金沢大会 記念フォーラム「現代に活きる禅の力」第1部 基調講演にて松岡正剛氏>禅とはアナロジカルシンキング(ロジカルではない)・寓意・「らしい」>西洋の文化/東洋の文化・唯一神/多神多仏・砂漠/森林・ユダヤ教キリスト教イスラム教/ヒンドゥ教仏教儒教道教神道・二者択一/多者共存>西洋の弁証法は、テーゼがあればアンチテーゼがあり、それを合わせること>東洋の天台止観は、仮のものと空のもののその中をとる「空仮中(くうけちゅう)」>信号でも、西洋は青と赤のみ。進めか止まれかのみ。対して東洋は青と赤と黄色(中)があり、その間の部分がある>西洋は(有)同一性の追求 自己発見 論理東洋は(無)関係性の重合 自他の相対化 場所>インドで仏教が生まれ、中国に渡り、だるま禅師が禅を作った梁の武帝が人をあつめ、安全や安心とはなにかという議論をしているときに、達磨禅師を呼んで安心(あんじん)問答がはじまった。達磨禅師「あなたが安心をもっているならいくらでも与えます。もっていないなら、あなたの安心を奪います。」もっているならあげる、もってないなら奪う、これが空、禅の思想>小乗仏教は自己発見、大乗仏教は他者を救う>六凡四聖という言葉があるが、六凡でぐるぐるしていることを六道輪廻と言い、その輪廻から解脱して四聖にいこうとするのが大乗仏教>自己がありながら他者へ向かう>浄土教は、弥陀の本願 悪人正機説対して禅は、直指人心(指をさす相手の心に自分がある)見性成仏(座っていればなにかが見える)>金沢の二人の哲学者が禅の研究をした①「善の研究」西田幾太郎自覚するということは、他者に向かうときに優しさ美しさが見える②「日本的霊性」鈴木大拙ジャパニーズスピリチュアル>自己(セルフ)は場所にある・命は場所付きだ>脳の中にはファントム(幽霊)がある・自分は場所によって変わる・過去現在 記憶記録 など>本来と将来の分断をつなぐものが必要であり、内観しているものと外の世界の間にあるもの、それが融通性である>自分さがしをやっても学問を追求してもみつからない>素粒子にはアイデンティティがない>禅≒場>即非の論理・何度も何度も「そうじゃない、そうじゃない」と、それだけ何度も「そうじゃない」といわれても、そのなかに小さなこれかな、というものが見つかる>逆対応・あるものはこうだということをもう一度もどって考える>真如・「なんか」「みたいな」「ライクアズ」>分・あなたがそうならいいやん>絶対矛盾的自己合一・分けて、分けないこと・分類とは限らない、分類しても照らし合う>分類知>相待知>懸待一如・かかっていくのも待っているのも同じ>なぜこれから禅が面白いか・世界がリスクや自己責任をとるような、融通がなくなっていっている。そんな中、ゆるい因果律や自己編集から相互編集に移行していったり、といったトワイライトカテゴリー(あはれ≒あっぱれ、加減、結構など、場所、雰囲気によって使い分けれる)のような「禅」が必要になってくる>禅が大事にしている言葉・朕兆未萌(ちんちゅうみもう)の自己=わたし以前のわたし・主客未分=お客様なのか自分なのかわからない状態>禅の感覚は簡単に、ロジカルには説明できない>忌野清志郎の歌はまさに禅————-第2部 トークセッションにて松岡正剛氏 前田日明氏 中田英寿氏>グローバルといいながら、日本と世界がなにかが違う>格闘技で西洋と東洋の違いを感じることは?(前田)・感情表現やリズム、間合いが違う・ロシア人は冷静沈着など、寝技などの違いがある>サッカーでの違いは?(中田)・サッカーの歴史の違いがある。日本はまだ浅い。南米などは生活のなかに当たり前のようにあるものであり、会話のなかに必ず出てくるくらいサッカーが当たり前。・リズムの違いもある。ブラジルなどは、攻撃の勢いとのらりくらりの差が激しい。・ヨーロッパなどは、自分達でペースを作ることができる。対して日本は、リズムを作る感覚が乏しい。勤勉によく動く文化がまだ完成されていない。>どうして日本文化に関心をもったのか?(中田)・世界中をまわったときに、サッカーの次に何が自分で出来るのかを探しにいった。・どこいっても聞かれたのが、サッカーのこと、その次に日本のことを聞かれる。外国人が中田を見たときにまずサッカー選手で、そのあとに日本人として見られている。・外国人にいろいろ聞かれても、個人として日本のことを知らないことに気づいた。・意外にみんな自分のまちのこと、日本のことをしゃべることができない・誰よりも日本のことを語れるようになれば、お金や名誉なんかよりも人生が面白くなるのではないかと思った>中田)五感を使った体験からしか本質は見えない、見てるだけではわからない。どんなつまらなさそうなものと思っても体験してみようと中田氏は思っている。日本人はまず、門に入らなければならない。>中田)文化とは長く続いた日々の生活のシステムの構築であり、文化は住んでる環境で変わる。その地域にどんな環境があるのかを知る必要がある。>日本刀へのこだわり(前田)・刀の鑑定の勉強から始まり、地金のことを勉強したとき、その地金の新古の判定がどうしてもわからない悩みがあったが、ある時に地金の新古が感覚でわかるようになった。たくさん試行錯誤して勉強して、記憶容量が溢れたときに、感覚がわかると言われた。>たくさん知っていてもだめであり、知識容量がこぼれて散らばって残っているものを見て開眼するときもある>工芸に開眼した経緯(中田)・最初はわからなかったが、展覧会や美術館をすごい数見に行った。ふと落ちる瞬間があればいいと思い、その瞬間を溜めていった。するとある日突然なぜかわかるようになる。>中田氏には家がないから、ものを集めることができない。その代わりに人集めをしている。人間関係のクオリティを、上げること。自分が出来なくても出来る人がいればいい、自分が知らなくても、知っているひとがいればいい・ひとが集まる場所をつくることが大事「禅機」>禅についてどう思う?(前田)・浪人生活のときに、暇でしょうがなく、お経を読み漁ったが、お経は、瞑想のテキストになっていることに気づいた。・仏教の戒律は、我慢比べのようなものではなく、医学的なシステマチックなもの。その戒律は瞑想業を成すための手段である。>禅についてどう思う?(中田)・禅とは状態のこと・日本の禅は武家の命の儚さからはじまった・あるものをわかるために、わからなさをつけておかないといけない・乱数は乱れるところと乱れないところをいれないと乱数でない・それぞれの宗教はそれぞれのライフスタイルの確立・個人の生き方をどうカッコよくするかの努力や厳しさはまわりが勝手に感じるもの。まわりの人達はそうなるための方法はすでにわかっている。>ゼネティックコンピュータ>最後に(前田)・単調でキツイ練習のときに、無意識でオートマチックになったり、試合で大きくダメージを受けたときに、気づかないうちに動いたりして記憶がないときがある。その記憶のない間、なにが自分の体を動かしていたのだろうと思うときがある。人間にはロジックで説明できない部分がある。・夢をコントロールするには?新しい経験をしたときに、「あれ?これ夢じゃないか?」と自問自答することをクセにする。それはイメージ力をつける訓練になる。>連続の非連続>最後に(中田)・なんのために生きてる?といった人生観は、長く生きるためやお金もうけや有名になるためでなく、単純に楽しく生きていきたい。しかし、楽しいことは苦労のあとにくるもの。逆に楽することは悪だと考えている。楽した日は、その日何があったか思い出せないから。思い出すのは、いつも楽かったことか辛かったことであり、人生を振り返ったときに素晴らしい思い出をたくさん作っておきたい。特に、自分が好きなことだったら辛いことも続けられる。
前田さんの日本刀へのこだわりのお話が長かったのですが。。。
で、結局「禅」って何?と聞かれても答えることはできません。
ロジカルに説明できない、あいまいな、融通性のある状態のことのようですから。。。
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Teruyuki Kobayashi
代表 : ㈱長田工業所(おさだこうぎょうしょ)
@terukobayashi 小林輝之
●溶接士免許から調理師免許まで幅広い経験をもつ福井県坂井市春江町の㈱長田(おさだ)工業所代表。
●金属加工のワクワクを一般の方にも知ってもらいたいため、溶接キャラのLINEスタンプを作ったり、溶接工場をテーマパークにするプロジェクトを進めていたり、インテリアブランド立ち上げにとりかかっていたりしています。
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