なぜぼくは意識高い系(笑)の道をえらんだのか
継続王に、おれはなる!0259
ぼくは他人に「意識高い系(笑)」と思われてると勝手に思ってます。
そう思われていると思っていても続けているのは、こんな理想があるからです。
「素っ裸でも、自信をもって、多くの人を喜ばせるような人になりたい」
第148回直木賞受賞作の「何者」という小説を読んだ影響で、こんなことを感じました。
意識高い系とは
意識高い系(笑)は社会性低い系(笑)かつ無意識低い系(泣)|blogos
たまたま見つけたこのリンク先では、意識高い系をこう特徴づけています。
もともとは学生、特に就活生を指していう言葉のようですね。
1.やたらと学生団体を立ち上げようとする
2.やたらとプロフィールを「盛る」
3.全ては自己アピール、質問が長い
4.ソーシャルメディアで意識の高い発言を連発
5.人脈をやたらと自慢、そして利用する
6.やたらと前のめりの学生生活を送る
7.人を見下す、の七つ。
こうした人物が「痛い」ということで、常見(リンク先の本の著者)は「意識が高い人」「意識が高い学生」の末尾に(笑)をつけて批判している。
これを見るに、ぼくは社会人でありながら、まぎれもなく意識高い系(笑)です。
あらためて客観的にみると、はずかしくて顔が赤くなります。
カッコ悪くたってがんばる
以下は朝井リョウ氏の「何者」という小説からの引用です。
主人公は、他人を分析して点数をつけているだけで自分から何も行動を起こさない男子就活生。
その主人公に、真逆の性格である「意識高い系」の友人が言ったセリフが、ぼくにささりました。
「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれをわかっているから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。(中略)それ以外に、私に残された道なんてないからだよ」
これが素直な「意識高い系」の本音なんだろうな、と自分の事のように思ったんです。
すべて吐き出した先には何が残る?
裸の自分の実力を知るには、一度服を脱がないといけません。
ぼくが日々ブログを書く上で意識している読者のターゲットは、実は自分自身なんです。
ぼくが忘れかけている部分、弱い部分、恥ずかしい部分、そういったことをネタにして「ルヒィさん、こうするべきなんですよ!」と自分自身にハッパをかけています。
ブログはぼくにとって、自分を全て晒して裸になってみる行為なのでしょう。
また、フェイスブックやツイッターなどで、いいことばかり投稿し続けていくこと。
賛否両論あると思いますが、これは自分の「よく思われたい!」と思うことを全て吐き出しつくすと、そこから先は何も残らない自分に気がつくようになります。
「ぼくは過去に、こんなことをやって来ました」
「現在、こんなことで頑張っています」
「将来、こんな夢があります」
ブログと同じで、すべての武器をさらけだした後、裸になった自分とやっと向き合えます。
やっぱりまだこんな体を晒すのは恥ずかしいな、ともう一度インプットに走ります。
意識高い系(笑)は、こうして作られる
ぼくは社会人になり、様々な経験をさせてもらっていろんな組織に入りました。
小さいながらもその色々な肩書きに守られて今のぼくはなんとなくこの場に立っています。
さて、肩書きをとっぱらっても、裸の自分をさらけ出して立っていられるのだろうか?
たぶんカッコ悪くて恥ずかしくて立っていられないと思います。
やっぱり裸の自分に100%自信がないんですね。
でもいつかは裸でもカッコ良く、より多くの人を喜ばせる人間に近づきたい。
でもまだその理想には届かないからまた服を着てカッコつけて、勉強して知恵を得たい・・・
このサイクルの過程で、「意識高い系(笑)」のぼくができあがります。
その姿は就活生となんら変わりなく、他人にはうつっていることでしょう。
一歩づつ理想に近づいている
でも、そんなことを繰り返していけば、知らず内にインナーマッスルが鍛えられる気がするんです。
その筋肉美で、いつのまにか大勢の人の前でも裸でいられるような自分に成長できる気がするんです。
そして多くの人を喜ばせるような人間になれるような気がするんです。
最近はそんな理想の体型に近づいている兆候を少しづつ実感できています。
ぼくは俗に言う、意識高い系という道をえらびました。
それ以外に、ぼくに残された道はないからです。
Teruyuki Kobayashi
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