わたしのこれまで20年間の生き方を振り返るブログ②(全5回)
2016/11/22
わたしのこれまで20年間の生き方を振り返るブログ①(全5回)の続きです。
飲食店で働いていた自分が、まさか実家の鉄工所で働くことになるとは最初は考えてもいませんでした。
イチからの下積み時代
もちろん鉄工技術も何もなく、一からの再出発です。
それでも昼から翌朝まで休みなく働いていた飲食企業時代のハードさに比べれば何てことない、と最初は自信がありました。

By: Keisuke Mutoh
しかし当時は父である社長以下、いとこや弟、おじなどの血族中心で5人という少数に加え、先輩の職人との指導上の行き違いや、下請け業者としての理不尽な対応、危険な現場経験、休日や退勤時間のあいまいさ、将来経営を引き継ぐための勉強と現実のギャップなどで、心身ともに家庭をかえりみず、もともと実家が新潟でしたが福井へ引っ張ってきた妻に苦労をかけ、心労で緊急入院させてしまいます。
妻の入院・葛藤・チャレンジ
その数ヶ月の入院の間、シングルファーザーのように幼い子ども2人の面倒を見ながら、今まで通りの仕事もしていた経験のおかげで、どれだけ妻が頑張っていたのかを知ることが出来ました。
とくに辛かったのが、自分自身がどうかなるのではなく自分以外の人を苦しめてしまっていたことに気づいたことでした。
そんな葛藤の中、たとえ経験は浅くても、資格や知識の面で会社に貢献しよう!と、いろんなことにチャレンジしました。
朝早く起きて勉強し、仕事が終わったあとに残って溶接の練習をし続けた結果、入社5年で、国家資格であるボイラー溶接士や建築施工管理技士をはじめとする数多くの資格をとることができました。
また、会社で製造工場の鉄やステンレスの手すりや階段を製造・設置していたことに目をつけ、一般住宅でも「介護保険を使って、玄関口に手すりをつけませんか?」という提案をしたり、鉄骨のカーポートの自社ブランドを作りました。
どちらも自作のチラシを数千枚の印刷して、近隣の住宅にポストインしていきましたが、一件も問い合わせはありませんでした。
中には2008年8月、少しでも会社の名前が売れれば、と仕事の合間に工場のシャッターにユリの花を描き「シンボルの花を描いて市をPRしています」と新聞記者を呼んで初めて新聞に会社の名前を載せたりと、この状況を変える努力をしていました。
代表交代の決心をした親子会議
入社して5年経ったある日、祖母の三回忌の夜に親子会議をしました。
毎日とにかく頂いた仕事を一生懸命こなしていくのみ、という当時の職人気質の父である社長の経営方針では、将来の社長交代時に未来の若い社員が入ってくれないのではないだろうか、入っても続かないのではないか、血縁のつながり以外の者でもこの仕事を楽しいと思ってもらうためには・・・
そんなことを考えて、早く経営の経験を積んでおきたいと焦っていた時期でもあり、わたしから「長田工業所の営業の子会社をつくり、その代表になりたい」と父に相談しました。
父からは、それぐらいの気持ちがあるなら、と「わざわざ別会社を作るのではなく、来期から2年間黒字が続いたら交代しよう」という提案をされました。
代表就任とその後の問題
その後なんとか2年連続黒字達成後、晴れて2012年6月、わたしは2代目社長として就任し、代表権をひとりで背負わせてもらうこととなりました。
しかし「社長」とは言っても、社員はすべて前社長の部下であり、自分にとっての元先輩職人、年上の親族ばかりで、前社長は会長として退いたものの健在です。
最初の1年間はそのまま職人として引き続き汗を流しながら、裏では経営の引き継ぎ、経営者としての外部とのつきあい、加えてまた妻が入院してしまうのではないかという、仕事と家庭の問題の山積が続きました。
「わたしのこれまで20年間の生き方を振り返るブログ③」につづく
Teruyuki Kobayashi
最新記事 by Teruyuki Kobayashi (全て見る)
- 長田(おさだ)工業所 2018年のメディア出演・掲載・講演等メモ - 2018年12月18日
- 2017年のメディア出演・掲載・講演メモ - 2017年12月21日
- 2017年5月・6月・7月のメディア出演・掲載メモ - 2017年7月15日